佐藤:「機会が不平等な社会」の話をするときにいつも気になるのですが、これがどんな社会になるのか、かなり偏ったイメージがあるように思います。
 日本もアメリカも、それぞれある面で機会が不平等な社会です。しかし、二〇世紀にはもう一つ、機会が不平等な社会がありました。旧ソ連です。たとえば、どんなに能力があっても、「マルクスレーニン主義万歳!」と言わなければ高い地位に就けなかった。これは途方もない機会の不平等ですよね。本人の能力以外の理由で、いろいろなことができなくなるのですから。
 その結果どうなったか。まず、人を適材適所で配置できないので、非効率な社会になった。働く人もやる気、インセンティブをなくしてしまった。そして、それ以上に深刻なのは、中央統制型の社会をつくってしまった点です。政治信条やどんな家庭に生まれたか、たとえば党幹部の子どもかどうかで、社会や企業体のマネジメントの仕事に就けるかどうかを決めてしまった。そういう形で、考える人と考えない人にニ分割してしまった。
 これは旧ソ連特有の問題だと誤解されていますが、考える人と考えない人を早めにわけてその間を行き来できないようにすれば、どうしたって中央統制型のシステムにならざるをえない。その意味では、むしろ機会不平等の問題として考えるべきではないかと思うのです。
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 今、日本では、企業のシステムを自立分散型にしていこうとしている。中央統制型は非効率だ、けしからん、と。その一方で、子どものころからエリートをつくれ、という声も大きい。これは考える人と考えない人を分けてしまえ、ということです。でも、そうなると、企業や社会も中央統制型にならざるをえない。
 その二つの方向性の矛盾にどれだけの人が気づいているか。残念ながら、あんまり気づいていないように見えるのです。(pp.69-70)