• リオタール[1983=89]『文の抗争』
  • 読み終わらない。

三七 法廷ともう一方の当事者が共有している言語のなかでは損害が表現されないところから不当な被害〔Tort〕が生じ、そのことから抗争〔différend〕が引き起こされるとするあなたの仮定を認めよう。しかし、その仮定によれば犠牲者の文の指向対象〔référent〕は厳密に言って認識の対象とはならないのに、あなたはどうして抗争が存在すると判断を下すことができるのか。あなたはどうして、しかじかの状況が存在すると主張したりできるのか(一節)。その状況の証人がいるからなのか。しかし仮定上、その証人は自分たちが主張する事柄の実在性を立証できないのに、あなたはいかなる理由でその証言を信用するのか。‥‥
 実証主義は以上のように語る。実証主義は実在〔réalité〕と指向対象とを混同しているのである。ところで多くの文の族〔famille〕においては、「すべての蜂の上には/平和が」「2×2=4」「出て行け」「あのときは彼は‥‥に向けて出発した」「とても美しい」というように、指向対象はなんら実在的なものとしては呈示されていない。しかしこれらの文が生起することに変わりはないのである(だが「生起する[=場をもつ]」ということは「実在する」ということと同じことだろうか)(一三一節)。(pp.62-3)