• リオタールは語る:

 『リビドー経済』の中心的課題は――もしそれを真面目にとればの話ですが‥‥そしてそれが真面目に取られなければならないかどうかについてはわたしにも定かではない‥‥というのも、そこにはパロディの側面があり、文体の研究があり、それがこの本を堪え難いものにしているからです‥‥実際、評判は悪かったのですが――それは一種の《主体なき疑似存在論》、ただただ捉え難い欲動の帯の存在論の試みだったわけで、それはスピノザ的だと言ってもいいかもしれません。フロイトの無意識の理論の地下に住むスピノザというところです。それ以外のことはもう忘れてしまった。わたしも年を取ったし‥‥(笑)。ああ、でもひとつ記憶に残っているエピソードがある。あなたもいたのじゃなかったのかな。パリ第八大学(ヴァンセーヌ)の新学期のときに、七四年に『リビドー経済』が出版されたばかりのときだったけれど‥‥だから七五年だね、七四年はアメリカにいたから。そのときわたしは、自分にこう言った、「もうたくさんだ、エネルギー、対抗エネルギー、位置移動、欲動の力、凝縮‥‥無意識の記述のためにフロイト自身も使っているこれら数々のメタファーはもうたくさんだ」、と。つまり、スピノザ的でもあるエネルギーのメタファーは「もうたくさんだ」ということです。こうしたメタファーと手を切って、どうしても不可避のものだけで、すなわち言語(langage)そのものだけで、すべてをやり直そうと言い聞かせました。つまり主体なき哲学を、力学的・力動的・経済学的な問題設定としてではなく、言語の問題設定として展開しよう‥‥(リオタール/小林康夫「リオタールとの対話:哲学/西欧/歴史」,pp.18-9)