学者見習いによる子どものためではない「研究のための研究」, 2005/01/25
レビュアー: K   東京都目黒区
 結論から言えば、地に足のついていない駄文だ。お奨めしない。
 不登校の当事者である子どもに対して、どのような環境を周囲が創っていけばよいと著者は考えているのだろうか?と考えてしまう。
 「明るい不登校や選択を語る当事者」にしても、社会的な「偏見」によって苦しめられた経験を必ず持っている。中卒だからという理由で単純な作業のバイトの面接にさえ落とされる経験を多くがしているし、していなくても多くがそれを知っている。「不登校エリート」が「明るい不登校」ばかりを壇上で語るのは、非言語的コミュニケーションにおいて既に苦しい体験を聴衆である「当事者」と共有しているからではないだろうか?不登校が別段ユートピアでないことは当事者は一番よくご存知だ。
 心優しい「明るい不登校や選択を語る当事者」が、子どもたちを前に「泣きっ面に蜂」のように子どもたちのモチベーションを地に落とすようなことをできるはずが無い。(やったとしたら結果は悪化か無意味のどちらかだ。)できるのは、不登校を研究材料としか見ていない学者見習いの著者のような門外漢のみである。(著者は当事者経験があるが、もはや彼女にとって「不登校」は研究材料に過ぎない。) 
 著者の問題意識は「百人の聴衆のいるシンポジウム」の派手さしか知らない人間特有のもののように感じる。もっと子どもとボランティアなどをして関わって「子どもの切実な悩み」を日常的に耳にしたり、小さな規模の「親の会」で我が子の小さな変化について切々と語る「親」の立場を知ったりするべきだ。そうすればおのずと著者の意識した問題は地に足のついたものになるだろう。

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  • あきれてものも言えない。いろいろ考えてはみたけれど、ここまで「わたしは本を読んでいません」「わたしは想像でものをいいます」というようなことを――「レビュー」という名のもとに――書けるのは、もはやある種の「才能」なんだろうと思う。とてもまねできない。記念に全文引用してしまう。