• リオタール[1979=1986]
  • 六章&七章。知は能力(competence)の問題にかかわっている、知には「物語的」なものと「科学的」なものがある、それぞれのちがいを――「語用論」や「言語ゲーム」といった「方法」でもって――見てみましょう、というおはなし。前者が「未開」的で、後者が「文明化された」ものだというような判断に留保をつけつつ、「正当化の問題」に焦点があてられる。
  • 六章から:

 最後に、物語的形態に優位を与える文化は、その過去を想い起こすことを必要としないと同様に、おそらくその物語を権威付けるための特別な手続きも必要としない、ということを指摘しておこう。‥‥そこでは、物語それ自体がそうした権威を持っているのである。人びとは、ある意味では、そうした物語を現実化させる契機に過ぎず、しかも人々は単に物語を語ることによってばかりではなく、それを聴き、それによって語られることによっても、すなわちその制度のなかでそれを演じることによっても――つまり語り手のポストだけではなく、聴き手、また物語られるもののポストに赴くことによっても――、現実化を行っているのである。
 こうして、はじめから正当化するものとして存在している民衆の物語の言語行為〔pragmatics〕と、西欧において識られてきた正当化の問題という言語ゲーム、あるいはむしろ問いかけのゲームの指示対象としての正当性とのあいだには、共約不可能性があることになる。物語は、すでに見てきたように、能力の判断基準を決定している。そしてまたその適用を絵解きしている。このようにして、物語は、その文化において何が言われ、何が為されるべき権利があるのかを決定する、そして、物語もまた、文化の一部である以上は、まさにそうすること自体によって、正当化されるのである。(pp.61-2)