「説教する権力」あるいは「訓練」考

 社会の大半の人は、ヒキコモリに無関心だ。でもその無関心な沈黙は、いわば「量子化されていない批判」であって、いざ何かが起こればあっという間に怒号に変わる。社会が危機に晒された、と判断されれば、その犯人は実体化される。 → 「誰も何も語ろうとしない」からこそ恐ろしい、という事実がなかなか当事者に伝わらない。

そそそそうなのですか? いやあ、たいへんなのですねえ。。(いろんな意味で。)――と思いつつ、こういわれると*1わたくしなんぞはつい、

  • わたしは「ひきこもり」にたいしてあまり関心がない
  • かといって「社会が危機に晒された」と思っても、「ひきこもり」を「批判」しようとか「怒号」しようとは思わない。(というかそもそも「社会が危機に晒された」、と思うことはないと思う。)

なんて「宣言」したくなってしまいますが、みなさまどうですか?(←なにが)

*1:つまり、自身の無関心 or 沈黙を問題化されると。――ただ、両者を同一視するのはむずかしい。そのわかりやすい説明として、5月18日の日記など。