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- ミシェル・フーコーほか『フーコーの〈全体的なものと個的なもの〉』、三交社、1993年(1979年スタンフォード大学講演をもとにしたもの*1)
- 「個人にかんする政治テクノロジー」(1982年)とあわせて読もう。重複がたくさんあるので、なにが言われているか(言われてないか)、よりわかりやすくなる。以下は「個人にかんする政治テクノロジー」では言われていないこと。
問題があるとすれば、それはむしろギリシア思想に関連してでしょう。牧人モデルへの言及を含むテキストのカテゴリーが少なくともひとつは存在しています。ピタゴラス派のテキストがそれです。牧人のメタファーはストバイオスが引用しているアルキータスの『断片』の中に見られます。nomos(法)という語は、nomeus(牧人)という語と関連があります。牧人が分割し、法が与えることになるのです。またゼウスは、羊の食べ物に配慮することになっているがゆえに Nomios et Nemeios(牧畜とネメア[森と草地の町])のゼウスと呼ばれていました。さて司法官というのは、博愛のひと、すなわちエゴイスムを捨てたひとでなければなりません。かれは、熱意と思いやりに満ちていることを示さなければならないわけですが、それは羊飼いのごとくなのです。
アルキータスの『断片』の刊行者であるドイツ人グリューベは、以上の事実について、これはギリシア文献の中にヘブライの影響が現れた唯一の例ではないかと述べています。ところが他の注釈者は、ドゥラットにならってだと思いますが、神と司法官、そして羊飼いの比ゆ関係はギリシアでは頻繁であったと断定しているのです。こんな具合ですから、これらの文献にこだわっても仕方がないでしょう。
というわけで話を政治文献に限定して進めてみます。すると調査の結果がはっきりでています。羊飼いに関する政治的メタファーはイソクラテスにおいても、またデモステネスやアリストテレスにおいても見られないのです。‥‥
これとは反対に、プラトンは牧人=司法官についてしばしば言及しています。‥‥(北山晴一訳)(pp.24-5)
- (2006年8月17日追記)ただし、『ニコマコス倫理学』1161a10も参照。
*1:よって目次は省略