一八四七年五月十五日、自分の責任において、ゼンメルワイスは自分が担当するウィーン総合病院の第一産科のドアに注意書きを貼った。それにはこう書かれていた。
 「一八四七年五月十五日の今日付けで、解剖室から出てくる医者も学生もみんな入り口のところに置かれた洗面器の塩素水で徹底的に手を洗うこと。この命令はすべての人に例外なく適用する。I・P・ゼンメルワイス
 ゼンメルワイスは微生物が産褥熱やほかの手術室の媒体になっているとは見当もつけられなかった。その発見はまだ三十年先のことだった。
 しかし、彼は医師の手や器具を通して病気が感染するという秘密を見抜いた。三十年後の無菌処置の基礎を形成する概念を思いついたのである。‥‥
 自発的に彼のやり方にしたがったのはニ、三人の外国人学生だけ〔??〕であった。
 ほとんどの人は「このばかげた消毒」を非常に面倒くさく思い、ゼンメルワイス自身が強制的に消毒させるために番をしなければならないほどだった。‥‥
 一八四七年五月、三百人ほどの患者のうち十二・三四パーセントが死んだ。ところが、五月以降の数ヶ月間では、千八百四十二例の出産のうち死にいたったものはほんの五十六例で、死亡率は急に三・〇四パーセントまで下がったことになる。‥‥(pp.146-8)

*1:講談社文庫に完訳あり。