• 高岡健編『孤立を恐れるな!:もう一つの「一七歳」論』、批評社、2001年
  • 斎藤環『博士の奇妙な思春期』、日本評論社、2003年
  • ひきこもりをめぐる論争らしい。が、なんというか。いろんな意味でコメントに困るもの。斎藤による高岡の主張の歪曲ぶりもすごいと思うが、高岡の主張を支持できるわけでもない。かといって、斎藤のほかの議論に納得できるわけでもない。ましてやそれが――ネット上の――さまざまなところで評価されているのを聞くと、もうなんといっていいか、ああそうか、これが「孤立」というものなのか、と「納得」したくなる。かなしい。
  • 斎藤の「手口」はわりとわかりやすい。たとえば斎藤は、以下のようにいう(下線部に注目):

 吉本隆明が『週刊文春』二〇〇一年三月二九日号に寄せた「ひきこもれ!」という能天気なコメントについて、高岡氏は「あとがき」で絶賛する。これこそが氏の言いたかったこと、なのだそうだ。実は私もこの号に、ひきこもりに関するコメントを寄せているのだが、なぜか高岡氏の眼には止まらなかったらしい。
 それはともかく、吉本氏の発言は正論には違いない。ただし、それは世間知らずの正論である。ひきこもって本を書いたりコメントしたりして生活が成り立っている人が、「ひきこもり」は素晴らしいと主張するのは構わない。誰にでも自己愛はあり、そこから語ることしかできないのだから。ただし、吉本氏のひきこもりは編集者とか高岡氏のような熱心なファンによって暗黙裡に絶大な支持を受けている。つまり、吉本氏は実際にはひきこもりではない。孤立もしていない。そういう認識をもって「でも、ひきこもりもそう悪くはないよ」と呟くだけなら、私もそれを支持しただろう。しかし「ひきこもれ!」というアジテーション化は感心しない。自分は安全圏にいて、若い連中にはリスクをおかせというような独善的な説教に、誰が納得するものだろうか。(『博士の奇妙な思春期』、pp.118-9)

  • これ↑だけ読むと、高岡が・吉本の「ひきこもれ!」というコメントを・「あとがき」で・絶賛した、というふうに読めるのですが、他方、その高岡『孤立を恐れるな』「あとがき」に書いてあるのは――ゼンゼンそんなことではなく――以下(下線部に注目)↓:

 ‥‥〔『週刊文春』で〕さすがに吉本隆明だけは、「ひきこもれ!」という正論を展開していた。
 吉本隆明はそこで、ひきこもりの人にデート相手を紹介してまで外に引き出そうとするボランティアや、自殺願望の人をインターネットで五千人集めたという若い男の子を指して「引き出し」症候群と呼び、「客観的に見て、あんたの方がちょっと病気じゃないかと言いたくなる」と指摘している。また「ランチメイト」症候群と呼ばれる現象について、「僕は一人で新聞を読んだり雑誌を読んだりしながら弁当を食べるのが普通だと思っていたんだけど、いつの間にか“それは異常で、友達のいない奴だと思われる”という価値観になってしまっている。誰も自分自身でものを考えることができなくなっちゃったんじゃないか」と述べている。
 「何だかひとりぼっちでいることが軽視される風潮があるんじゃないか。友達がたくさんいないとダメなような雰囲気があるんじゃないか」、「何が強いって、最後はひとりが一番強いんですよ」という吉本の言葉は、それを読む人を勇気づける。「最後はひとりが一番強い」――私が少しずつ考え、そして、この本を通じて表明したかったことが、この言葉に集約されている。
 孤立をかかえながら、たちどまって考えたことに注目する人間は、必ずいる。‥‥(『孤立を恐れるな』、pp.221-2)

  • でした。ようするに高岡はここで、吉本の書いた「ひきこもれ!」というコメントの中の「最後はひとりが一番強い」という「言葉」を、自分が「表明したかったこと」だといっているわけです。けれど、斎藤はそれを「ひきこもれ!」というコメント自体を「絶賛」したかのように書いてしまう。これが「歪曲」その一。というのは、「コメント」「コメントの中でいわれている言葉」は別物だからである。
  • また、その結果、斎藤の上に引いた文章は、まるで高岡が――吉本が、ではなく――「ひきこもりは素晴らしい」とか「ひきこもれ!」とかいう「アジテーション化」を行ったかのように読めてしまう。斎藤の意図はどうであれ、そう読めてしまう。が、高岡はそのように述べているわけではない(また、高岡が引く吉本もそのようには述べていない)*1

*1:ただしわたしは吉本の文章そのものは確認していない。だから、吉本が「ひきこもれ!」とかいう「アジテーション化」を行っているかどうかの判断は今のところできない。