十九世紀後半は社会の医療化が急激に進んだ時代でもあった。一方では保健・衛生思想の普及によって、下層民衆にまで医療への関心が高まり、他方では、疾病保険法制定に代表されるように、疾病保険制度が整備され、これまでは医療ケアを受けることが少なかった下層階層も、保健・衛生にかんして医師の監視のもとにおかれるようになった。(p.43)

 ‥‥十九世紀末に発行された新米医師向け指南書は、当時の医師の患者観を如実にあらわしている。曰く、医師は患者を診て即座に病状を把握するべきであり、診察に時間をかけるべきではない。もしも、診察に時間をかければ、患者が医師の診断能力に疑問をもつことになる。また、医師は判断のつかないことがある場合にも、そのむねを患者に知らせてはならない。医師の限界を患者に示すことになるからである。患者に指示を与えるときには、軍隊のような命令口調で話す。指示は的確で、必要な事項を忘れてはならない。次回の診察については、医師は指示しない。もしも、具体的につぎの来診日を指定すれば、医師が診察料を期待していると、患者に思われるからである。‥‥(p.44)