まず、──なにしろよくわからなかった箇所なので、読み方については自信が無いのですが、しかし──この↑まとめは疑問に思いました。とりあえず、フーコー自身が使っている表現を言い換えずにそのまま箇条書きすれば、まとめとしては、こう↓なるかと思います:
「非連続性は歴史学の分析において三つの役割のもとに現れる。」

  • A:それは、歴史学的分析の「手続きをかたちづくっている」。
  • B:それは、歴史学的分析の「結果である」。
  • C:それは、歴史学的分析の「概念である」。[59:0103]

「道具でも対象でもある」という文言は、C「概念」の項の中に、<諸領域の「個別化」と「比較」>および<「単位を崩す」と同時に「単位を打ち立てる」>と並列に、登場するものですよね。

そうですね。そのようにまとめたほうがよいですよね。わざわざ丁寧にありがとうございます(こういうところでなぜか丁寧に書かないわたし。。)

それはそれとして/しかしそれ以前に。
いま私が気にしているのは、
「非連続性を働かせることは、エピステモローグ&アナールに共通の仕事である」という主張を、フーコーは、どのようにしてもっともらしいものとして示せているか
ということでした。この疑問に対して、
「歴史家のじっさいの仕事を考慮に入れると」パラドクスではない
を答えにあてるのでは、問いを一つずらしたことにしかなっていません。というのも、
それでは、「エピステモローグ&アナールのじっさいの仕事」において、「非連続性」は、
どのような仕方で「認識論的断絶」かかわっているのか
どのような仕方で「長期持続」とかかわっているのか
そしてそれらはどのような意味で「同じ」だといえるのか
という──一歩退いた*1──問いがあらたにたてられるだけだから、です。

うん。よくわかりました。

 整理してもらってだいぶ見通しがよくなりました。わたしが気になってしまったのは、その一歩弾く、というところがけっこう重要だと思ってしまったから、だと思います*1。なので余計な一言だったかもしれないのですが、にもかかわらず、丁寧なお応え感謝です。ありがとうございました。(で、じゃあ、その問いをどう考えるか、ということについてあれこれ書いてくれると、もっとうれしいです。(^_^))

*1:なにしろフーコーはその一歩弾いたところから、「言説の分析」をはじめよう、といっているわけで。))。というか、その一歩弾く、というところが contractio さんの問いからは読み取れなかったから、だと思います。  とはいえ、それでもたしかに「問いがあらたにたてられるだけ」ですし、フーコーはその問いに答えていない、というのもたしかだと思います((ハナシは「言説の分析」のほうにいってしまう