より丁寧に文章を追うならば、「病の意味自体を変容させることによる「病者」としての自己の受容」と「終わらない不登校」というオリジナリティのある表現があるにはあります。しかし、どちらも、今目の前にいる子どもを救うとはとても考えられない、荒唐無稽な提案に過ぎないと思います。
 不登校の子には未だにただ不登校であるというだけで薬を処方する医者がごまんといます。精神安定剤抗うつ剤睡眠導入剤…。学校が原因なのに、学校ではなく子どもを問題視し、医者は薬漬けにしてしまう現実があります。病院不信の子の数は非常に多数に及びます。
 そういう子どもを前に、どうやって『「病者」としての自己の受容』など言えましょう?「病気だけど順調だね」「治らないよ〜ん」…。病院不信の子どもや親が、そういった言葉で楽に…なれますかね?ましてやフリースクールを「選択」してきて、薬を飲まなくても充分に楽な子どもに対して、一言。「病気だけど順調だね」「治らないよ〜ん」…。これで子どもが納得するでしょうか?

  • 読んでくれたんですね。というか。少なくとも、「表現に対して不明瞭な批判をするだけ」という評価から、「丁寧に読めば‥‥オリジナリティのある表現があるにはあります」という評価にかわり、格段に理解しやすくなりました。というか。
  • 一点だけ述べておくと、貴戸の本は、「選択の物語」のさまざまな利用のされ方を示したものだったはずです。「親」にとってそれがどう使われたか、〈当事者〉にとってそれがどう使われたか、あるいは、〈矯正者〉によってどう使われなかったか、それが記述された。だとすれば、「病者としての自己の受容」という「物語」も、(不登校というテーマにかぎっても)そのようにしばしば異なった仕方で使われるのではないでしょうか。わたしはそう思います。もちろん、じっさいどう使われるかはわからない。それは――Kさんのいうように――必ずしも子どもを救わないかもしれない(だから子どもは読むべきではないのかもしれない)。けれど、貴戸が「選択の物語」の「限界」として指摘した二点――「運動の論理としての有効性」と「〈当事者〉に対して構造的劣位を主体的に『選択』させるという問題」――に関してはどうなのか。さらに、やや水準のちがう問題である語らされるという強迫に関してはどうなのか。わたしはそう思う。