ときは一九八七年前後、レーガン大統領の時代である。当時のアメリカのあちらこちらでプロパティという言葉がささやかれていたという。知的所有権という言葉が一種の流行語になり始めていたのだ。ちょうど同じ頃、エイズはすでに世界で猛威をふるい始め、ウガンダではアフリカで最初の爆発的な流行がおきていた。特許(知的所有権)とエイズ、この二つの流行がその後の世界を大きく変えてゆく。やがて両者は、裁判所、国際会議を舞台にぶつかりあうことになる。両者の衝突は二〇〇〇年には多くの人の知るところとなり、二〇〇一年には一応の決着がつくことになるが、まだこの時点では一部の人たちにしか知られていない。(p.33)

 ‥‥特許さんが強くなればなるほど、初めから特許さんが背中に抱えていた欠点も大きくなってしまう。八〇年代の後半、医療・医薬品の分野で異変が起きていた。
 ここでタイさん、ブラジルさんが舞台に登場する。当時のことを振り返って、タイの消費者団体の代表者は次のように語った。「これまでなら、新しい薬が開発されてから、二、三年で輸入薬の値段は下がるものだった。ところが、いつまで待っても薬の値段が下がらない。せっかく良い薬ができても、貧しい病人には使えないようになった」。ブラジルの医療関係者も同じことを感じていた。ブラジルが行った全国規模の健康調査の結果、医薬品全般が国民にゆきわたっていないことが報告された。特許さんが強くなったことが、人の健康に影響し始めたのである。(p.34)