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ヴェトナムをめぐるフランスとの戦争
ヴェトナム進出を企てていたフランスは、これを清朝との朝貢関係から離脱させて、独占的な保護国にしようとした。これにたいし清朝は、両属的な関係を構築して、フランスとの優越的地位を容認しつつ、朝貢関係も存続させようとしたが、あくまでも排他的・独占的な保護権にこだわるフランスとの妥協点が見出されず、ついに戦争に陥ってしまった。これがいわゆる清仏戦争(1884-85)である。(p.55)
- 清仏戦争前史:
清朝に朝貢し「安南国王」に封じられていた黎朝(1533-1789)は西山党阮氏の反乱で滅亡した。その後、黎朝の有力豪族阮福英は、フランス人宣教師ピニョーと結び、彼の支援のもと、彼が本国からつれてきたフランス人志願兵の助けも借りて、1802年ヴェトナムを統一し、フエに都をおいて阮朝を建て、その後自ら嘉隆帝を称した。阮朝は中国式の制度を採用し、さっそく1803年中国に朝貢し、翌年「越南国王」に封じられた。他方、南方にたいしては「南の中国」として臨み、カンボジアやラオス、周辺の民族などと朝貢―冊封関係をもち、「大南国皇帝」として君臨していた。
阮朝建国のときから特別な関係にあったフランスは、その後、ナポレオン三世の国威発揚政策の一環としてヴェトナム進出を始め、1862年、サイゴン条約を結んでコーチシナ東部三省を獲得した。さらに67年にはコーチシナ西部三省も実力で併合した。(p.55)