• 波平恵美子『日本人の死のかたち:伝統儀礼から靖国まで』、朝日選書755、朝日新聞社、2004年
  • 読了。勉強になった&おもしろかった。とりわけ、著者が1964年からつづけた村落調査でのエピソードを集めた第三部「さまざまな死のかたち」には考えさせられた。あとがきによると、『病と死の文化:現代医療の人類学』(朝日新聞社、1990年)の続編とのことなのでそちらも読んでいる。以下の件は、自戒の意味もこめて、引いておきたい。

昔は現在と違って一組の夫婦に子どもが何人もいたのだから、一人や二人子どもが死んでも親の悲嘆はそれほどでもなかったろうと考えるのは、現代の人びとが過去の人びとについて抱きがちな誤解である。確かに、一組の夫婦が十五、六人も子どもをもつことがあったが、そのうち成人する子は少なかった。また、周囲の夫婦が多くの子をもつのに一人も生まれないか、生まれてもやっと一人か二人であり、その子どもたちも成人前に死亡してしまうという家も決して少なくなかった。聞き取りによって家系調査をすると、子が生まれないか次つぎに死亡したため、養子をとる例が非常に多い。子どもの命は実にはかなかったようである。
 一九一〇(明治四三)年生まれのある女性は次のように思い出を話した。長女であるその人を頭に両親にはすでに六人の子どもがいたが、七人目の男の子が、一歳未満で何の病気だったのかわからないが、死んだ。葬式の日、母親は激しく泣き崩れ、いざ出棺という時にその子の名前を泣きながら何度も呼び、「お母ちゃんも○○ちゃんについていきたい」と言ったという。それを聞き、当時十三歳の少女であったその人は、「私たち六人の子を残してお母さんは死にたいの。それじゃあ残った私たちはどうすればいいとお母さんは思っているんだろう。○○ちゃんほどには私たちのことを愛してくれないんだ」と思い、激しく母親を憎んだという。泣き崩れた母親が、残りの六人の子どもたち全部合わせたよりも、死んだ一人の子どもが可愛いと思ったのでは決してないだろう。しかし、どんなに子どもの数が多くても、とくに生まれて間もない幼い子の死は、親たちの悲嘆の種だったようである。(pp.97-8)