ロバート・J・スミス『来栖―むらの近代化と代償』

  • (2)ロバート・J・スミス『来栖―むらの近代化と代償』(河村能夫、久力文夫訳、ミネルヴァ書房、1982年2月) http://amzn.to/2g4Qny7
  • 原著は、Robert John Smith, Kurusu: The Price of Progress in a Japanese Village, 1951-1975, 1978
  • アメリカの人類学者ロバート・J・スミス(1927〜2016)が香川県塩江町の集落である来栖で1951〜52年と1975年に同地に住む人々を調査した成果などをもとに、高度成長期に農村でおきた変容を検証した。書き下ろし作品。序文はロナルド・ドーア
  • 2度の調査における自身の体験を交えつつ、電話、自動車、ラジオの普及から、結婚式の外部化まで、豊富な事例に言及することで、近代化する農村の姿を多面的に浮かびあがらせることに成功している。一例をあげてみよう。

25年前、来栖の人びとは、畑のむこうの国道を通過していく大きなトラックや乗用車に注意を払ったものである。それほど車が少なかったからである。(略)〔ところが、〕1975年には,23戸のうち11戸が各々1台自動車をもち,5戸は2台ずつ、そして1戸は3台もっていた。だから、合計24台の自動車が、人口84人のむらで個人所有されていたのである。この驚くべき状況は、何年もかかってゆっくり増加した結果ではない。ほとんどの自動車は、1960年代以降に購入された(p.167f)

  • しかし、近代化には別の側面もあった。副題にある「代償」である。

〔自動車の利用などにより〕集落の外に雇用機会を求めた農民は、連帯行動を少しも重視しなくなるが、それは、彼ら自身とその家族の幸福にとって、集落の重要性が減少したからである。むしろ集落は、彼らにとって、常勤の職を続けていくかたわら自給用の米を作るだけの場所となってしまった(p.261)

  • 経済的基盤の変化に伴い、人びとの社会的つながりが希薄になった(連帯性が低下した)というのである。連帯性の衰退は、社会資本減少を主張したパットナム 『孤独なボウリング』の議論にもつながる、きわめて現代的なテーマである。高度成長期を知る上でも、現代日本社会を考える上でも、教えるところの多い一冊といえる。