某知人の某論文(読みづらい)をようやく読む;

 〈「居場所」関係者〉の議論には、〈親〉が「学校信仰」を見直すことを決定的に重視したり、家庭を「居場所」とすることが必要とされるなど、ふたたび「家族」や「家庭」を解決策として提示することの危険性があるように思われる(p.50)

子どもの不登校とは、〈親〉にとって「自分の問題」であり、「不可解なもの」である。‥‥それは原因不明の、自己の操作可能性を超えた何事かであり、〈親〉はただそれを受け入れるしかないのである。/なお、そうした〈親〉による受容は、しばしば「選択」の物語に依拠しつつ行われる(p.51)

  • こうした指摘は(身体/知的障害をめぐる)「わが子の障害をいかに受容するか」というテーマと比較することができる。(cf.p.143)
  • そこから/あるいは、たとえば「親の*1運動」として不登校をとらえなおしてみることもできる。

*1:多くは母親、つまり女の。