デュルケム[1938→1981]『フランス教育思想史』、行路社

〔17世紀、ジェスイットの学校で〕教科となった語学や文芸はどんなものであったであろうか。それは全くギリシャおよびローマのものだけであった。フランス語といえば‥‥17世紀にはフランス語自身も文学的言語となってはいたが、それは教科内容から全く除外されていた。だからフランス文の説明、フランス文の分析、フランス文体などは少しも教えられなかった。教室ではフランスの著作家の文は誰のものも読まれたり、説明されたりすることはなかった。ラテン語文法がラテン語で教えられ(Despauteres)、古代作家の説明もラテン語で行われ、ただ最初の三ヵ年(六学級から四学級まで)の間、フランス語の使用は例外的に認められていたにすぎず、フランス語の文法教育は行われていなかった。生徒相互間でも、単に学級内においてばかりでなく、寄宿舎の部屋の中でも、フランス語を話すことさえ禁止されていた。またジェスイット神父たちはラテン語をすばらしく巧に操っていたが、母国語はほとんど全く知らなかった。
 「彼らの大部分は、フランス語本来の構造も最近加えられた改良なども全く意に介していなかった。そしてフランス語を用いなければならないときには、いつも全く何ともいえぬへまをやっていた」(ドゥシュー Doucieux「17世紀のジェスイット文学者」から)。(p.487)