アリエス「家族の中の子ども L'enfant dans la famille」(1948)、in 中内敏夫・森田伸子編訳『「教育」の誕生』、藤原書店、1992年

 子どもの状況は、ちょうど第三身分のそれと同じである。1780年から1800年ころシェースによれば、第三身分についてこういうことができた。「昨日、それは何であったか? 無であった。明日それは何になろうとしているか? すべてに。」
 モンテーニュは自分の子どもの数も、自分の妻が全部で何回子どもを産んだかも、正確に言うことができなかった。ガルガンチュアの誕生については、ラブレーはほんの一瞬しか注意を払っていない。
 わが古典文学も、ルネッサンス以上のつれなさで子どもを無視する。子どもは‥‥偉大なる悲劇の精妙で均衡のとれた情念を養うにはふさわしくない。‥‥ラ・フォンテーヌは、この残酷にして不条理なる小さな生き物を、動物よりももっと理性を欠く存在として軽蔑した。この年齢の子どもはあわれみの心を持たないからである。
 エミール・マールは、トレント公会議以降の宗教図像のすぐれた諸研究〔1932-39〕のなかで、17世紀における幼子イエスに対する信仰が、ほんとうのところ何を意味していたかを示している。その意味するところは、キリストが身を落としてくださった謙譲の底知れぬ深み、という点にあった。「子ども時代は野獣の生活である」とボシュエは言った。それにもかかわらず、神の御子がこの動物のような愚かな姿を借りられたのだ。これ以上低く身を落とすことができようか。これこそイエスを子どもの姿で示すことによって、かきたれられるべき感情だったのである。(pp.83-4)