ヴィーヴェス『学問論』(De Disiplinis,1531) in 小林博英訳『ルネッサンスの教育論』世界教育学選集31、明治図書、1968年

彼ら〔過去の人間〕は、知識を求めての不安におののくこのような長い道程の終局は結局何であるか、この不断の労苦の報酬は何であるかをやがて反省するようになった。これこそ他のいかなる問いにも増して人類の関心を引くに値する設問である。なぜなら、もし、種々の欲求にはまた新たな欲求が加えられる以外に何も報いられないのだとしたら、また一つの欲望の終りが次の欲望の始めにすぎないのだとしたら、‥‥このような不安におののき疲れはてることは一体どういう利益があるのだろうか〔ということになるから〕。‥‥
 ‥‥この難解な問いは、偉大な精神〔animus〕の所有者たちを啓発したというよりは、彼らを鍛錬した‥‥人間の知性〔mens〕は最終目的自体から出る光で輝くのでない限り、自らのかすかな灯で照らされただけでは、この目的の認識に達することはできないからである。それは暗闇に入ってくる人には光の援けなしに物を把むことができないのに似ている。それゆえ、われわれがその御許に行くべきことを教えるだけでなく、たちまち倒れてしまう弱い人間の手を取るようにして導いて下さる神が必要であった。この導きこそ神の光から発した光線、その全能から出た力として、神御自身からわれわれが受け取った宗教なのである。この宗教のみが、われわれがそこから発し、そこへ立ち向かっている源へとわれわれを立ち戻らせるのである。このことが成就し、人間がそこへ向けて造られた目的に各人が到達すること、これ以外に、人間の完成はないのである。(第二部第一巻第二章)(pp.25-6)