• フーコー『監獄の誕生:監視と処罰』、田村俶訳、新潮社、1977年(原著1975年)
  • これも再読。こういう本を読むと、しばしば――フーコーの名とともに――語られる「規律・訓練社会から管理・監視社会へ」というような図式的な理解がふっとんでしまう。あるいは、権力がどうだとか。どうしてそんな図式的な理解が広まってしまったのか、むしろそちらのほうが気にかかる。もちろん、図式的に語らざるを得なかったり簡潔に説明しなければならなかったりする場面というのは多々あるのかもしれないが、そうした要約がどれもこれも似通っている必要もないはずだ。たとえば「これは人文科学の誕生について書かれた本だ」と言ってみる、とか*1
  • つづき(?)はこちら:

なるほど、個人にかんする或る学問は可能かつ正当なりや、といったアリストテレス流の問題を設定することは誤ってはいまい。多分、大がかりな問題には大がかりな解答があるかもしれない。しかしながら、《臨床診断》クリニック中心の諸科学を示す略号で整理してもいいような事態の、ほぼ十八世紀末における出現といった些細な歴史上の問題が存在するのである。たとえば、知の分野のなかへの個人の(もはや種の、ではなく)登場の問題であり、学問的言説ディスクールの一般的な運用のなかへの、個別的記述や尋問調書や病歴口述書や《一件書類》〔??〕などの登場の問題である。事実にもとづくこうした単純な問いには、おそらく、大がかりではない解答が必要であるにちがいあるまい。つまり、書記行為や帳簿記入の諸方式のほうを調べなければならず、試験(診断・検査をふくむ)の機制のほうを、規律・訓練の装置の形成や身体支配の新しい型の権力の形成のほうを調べなければならない。人間諸科学の誕生はどうなのか。栄誉などとは無縁なこうした記録のなかに、それは真に求められるべきである、そこにおいてこそ、身体や身ぶりや行動にたいする強制権コエルシションの近代的な働きが磨きあげられてきたのだから。(pp.193-4)

*1:それだと『言葉と物』とおなじになってしまう?