相手していただいてありがとうございます。――と思いつつも、うーん。どこから、なにをいえばよいのかわからないので、とりあえず――一番かんたんに言える――質問をもらったところだけ書いておきます:

とはいえ──上のように解釈して(3)を考慮に入れたとしても──(1)(2)の並列が「どのような意味で」パラドクスではないかについては述べられていないか。

と、いうことではなくて、「(3) が ちゃんと示されていない」(のはおかしい)といって、私は困っていたのでした。

「(3)が ちゃんと示されている」なら、それで当初のパラドクスは解消しています。
ちなみにdenebさんは、論考中のどこで (3) が示されている、と思いますか?

ということですが、「非連続性の概念自体が在り方[ステータス]を変えたのだ」という文章以下で、(3)が示されているのでは、と思いました。
 簡略化してしまいますが、その変化した(らしい*1)「非連続性の概念」の「役割」は以下の三つらしいです。つまり

  • 歴史的研究の道具
  • 歴史的研究の結果
  • 歴史的研究の対象

の三つ。むかしはそうではなかったが、いまでは歴史家は[アナールのひともエピステモロジーのひとも]、これら三つを働かせながら、仕事をしている、と。
 こうした「物語」に賛同するかどうかは別として、これは「理論的」にはわかりやすい指摘なのでは、と思います。つまり、これら三つのうち一つ――つまり、歴史的研究の結果――だけを見ると、アナールの「連続性」とエピステモロジーの「非連続性」は「パラドクス」のように見えるが、ほか――道具や対象――というか全体(=歴史家のじっさいの仕事)を考慮に入れるとそうではない、という指摘はわかりやすいのでは、と思います。(というか、わたしにはそのように読めました。)もちろん正確にいえば、パラドクスが解消される、というよりは、パラドクスがその位置づけを変える、ということなのでしょうけれど*2。したがって、だから、

これら二つの方向はしかし、歴史一般についての同一の方法的再考によってもたらされた、シンメトリカルで逆向きの二つの効果であると私は考えます。[p.199]

といわれるのではないでしょうか。同一の方法的再考、というのは歴史的研究の「結果」のみを考慮すること、ではないかな、と。

また、

 しかし以上のような交叉が幻想を引き起こすことがあってはならないのだ。外見上はそう見えるからといって、歴史的研究のある種の領域[〜エピステモロジー]は連続性から非連続性へと向かい、他の諸領域[〜アナール]──ほんらい歴史学そのものというべきもの──は雑多な非連続性の蝟集状態から、中断されることのない諸々の大きな統一的単位の研究へと向かったのだ、などと想像してはならないのである。

といわれるのは、たんに――歴史的研究の結果にばかり目を向けないで――おれの「問題提起」を聞いてくれ、ということなのではないか、と。(「領域」とか「単位」については、もっとあとでまた触れられていますが。)

とりあえず以上で。

*1:というのは、わたしはフーコーのこのテの言明をあまりマジメに受け取りたくないからなのですが(w だって‥‥ねえ?(←なに)

*2:で、その「位置」が「どこ」で、「どんなこと」なのかについて、フーコーはほとんどなにも語っていないと思いますけれど。位置が変わった、といっているだけで。