• 貴戸理恵不登校は終わらない:「選択」の物語から〈当事者〉の語りへ』、新曜社、2004年[bk1]
  • 副題はやや疑問。というか、「当事者」や「『居場所』関係者」(や「管理者」や「医者」などなど)といったカテゴリー*1を用いなくても、言えることがほとんどなのではないだろうか、というか。こうしたカテゴリーの(悪くいえばずさんな?)使用によって、随所に見える鋭い指摘が顧みられないとしたら残念なことだと思う。

不登校はどの子にでも起こりうる」という文部省の方針転換以後の、斎藤環や河合洋のような〕こうしたいわば「ポスト『どの子にも』の精神科医による不登校の論じ方には、次のような特徴がある。第一は、不登校の二極化の指摘である。そこでは、「健常な不登校」と「病気の不登校」が分離され、後者がひきこもりや精神症状を伴う状態として、治療対象として見いだされている。第二は、「運動」や「イデオロギー」に拠らない「中立」で「フェア」な立場の強調である。彼らは不登校を全面的に治療や矯正の対象とする主張とは距離をとりながら、東京シューレや奥地に代表される〈「居場所」関係者〉の議論を特定の立場に「肩入れ」する「一部の」「偏った」主張として批判することで、みずからをそのどちらでもない「中立」と位置づける。(p.74)

*1:とか意味づけの分類[pp.209-211]とか。