Kさん:
居場所関係者がもっとも苦しい子どもに対して「救う必要性に迫られて」使う「選択」という“表現”に関して不明瞭な批判(効果があることを認め違和感があると主張するのみであるという批判)をするだけで、子どもを救うための代わりの“表現”を示していません。結果的に居場所関係者は、(1)著者の批判だけを被り今まで通りに表現を使う(2)著者の批判を受けて表現を使用しない代わりに子どもを救う言葉を利用できない、の2つの選択肢を突きつけられる事になります。

palaga さん:
実践において,必ずしも本を全て受け入れる必要などないことは,周知の事実のはずです。批判的にこの著作を利用しようと,参考にしようと,あるいは新たな悩むきっかけになろうとも,それは著作の利点であり,新たな情報を得る意味でもあるはずです。子どもを救う言葉は,それぞれの実践者が最終的には自ら構築していくものであると私は思います。著者の批判が不明瞭であったというのは,著作の単に不完全な部分であり,それを引き継ぐことこそが読者の仕事ではないのでしょうか。

  • んー。palaga さんのいうことはそうかもしれないのですが、ただ、著者(貴戸さん)は本書の四章でそういうことをいちおう論じていたと思うんですよねー。「選択の物語に意義はあった。しかし限界もある。だとすれば、それに代わるものはなにか」(大意)みたいな風にして(以下参照)。上のコメント欄は、著者のそうした議論を踏まえた上での――著者の議論は不十分だ、あるいは、著者の議論を必ずしもすべて受け入れる必要はないという――議論なのでしょうか。いまいちそこがわからず。
  • というか。ひとことでいえば、「不登校は終わらない」という言い方は、Kさんいうところの「表現」じゃないのでしょうか。というか。それともやっぱり本読んでないんですかね。というか。