ウィーン体制(1814-5)を指導したメッテルニヒは、「正統主義」と「勢力均衡」を指導理念とした、と一般に言われている。しかしこれを鵜呑みにしては彼の政治手法を見誤ることになるだろう。
 正統主義とは、革命前の支配者が正統な支配者であるとして、革命前の支配関係を復活させようとする復古的理念である。そしてウィーン会議では実際に、フランスだけでなく、スペインやナポリでもブルボン家の王朝が復活したのだった。しかしメッテルニヒはこの理念を教条的に信奉していたのではない。そもそも彼はナポレオンの没落を望まなかったのだし、革命前の神聖ローマ帝国の復活など一顧だにしていないのである。
 メッテルニヒにとって、正統主義はヨーロッパに勢力均衡を回復させ、この回復された秩序を正当化するための方便であったように思われる。(p.124-5)

  • ドイツ連邦:

 ウィーン会議でつくられたドイツ連邦は、神聖ローマ帝国に代わるドイツ諸国家(主権的諸侯と自由都市」)約四十の連邦組織だが、これ自体、ヨーロッパの勢力均衡の縮図とも言えるものであった。そもそもハノーファーの君主はイギリス国王、ホルシュタインの君主はデンマーク国王、ルクセンブルクの君主はオランダ国王であって、ドイツ連邦といっても国際的な君主連盟に近いのである。
 連邦はその機関としてフランクフルトに連邦議会(かつての帝国議会の後身とも言える各国の公使会議)をもち、オーストリアが恒常的議長国となる。ここにはオーストリアの指導性が実現されている。しかし、この国がヘゲモニーを握ったわけではない。連邦構成国は国の大きさに応じて票を分け合うが、全六九票の内オーストラリア・プロイセンが各四票、バイエルンやバーデンも同じ四票であって、一国が突出しようのない配分になっていた。‥‥
 だからこれは到底ドイツの統一国家とは言えないものであった。ヨーロッパの勢力均衡のためには、ドイツは強力な統一国家などにならない方がよい。それがむしろメッテルニヒの考えだったのである。民族統一など彼にとってはもとより論外であった。(pp.125-6)