7月革命の衝撃がドイツ中産階級の精神生活に与えた影響は、ロマンティークの伝統をはなれて啓蒙思想を復活させるという形をとり、そのイデオロギー闘争は、ブルジョア革命を準備する方向をとりつつ、絶対主義国家機構の一部である教会を目標とする。フォイエルバッハも、発禁の書『死と不死性に関する思想』(Gedanken über Tod und Unsterblichkeit,1830)のなかで、すでに神学を絶対主義国家の思想警察としてとらえる。――「かつては宗教が国家のささえであったのだが、いまや国家が宗教のささえである。」(p.95)

 他方、あたらしい段階での運動は労働者と手工業者にも波及し、それまでの自由主義的=ブルジョア的性格から革命的=民主主義的性格に転化する。あたらしい政治文学の組織とともに、この時期から社会改革の要求が運動の表面に立ち、したがって運動は基本的に労働運動としての性格をもってくる。一八三四年には、パリのドイツ人亡命者によって、民主主義的=共和主義的組織「追放者」(Geächtete)がつくられ、ヤーコプ・フェネダイによって編集された機関紙が非合法にドイツにはいってくる。‥‥‥さらに、フェネダイが一八三五年パリを追放されたのち、テオドール・シュスター、ヘルマン・エヴァベックらの左派分子の指導下に「義人同盟」(Bund der Gerechten)が設立され、民主主義と社会主義をひろめるためのいしずえがおかれる。一八三八年には、ヘーゲル左派による啓示宗教およびキリスト教的哲学批判の足がかりとして、『ハレ年誌』(のちに『ドイツ年誌』と改称)が創刊される‥‥‥そして、これらの諸論文の発禁をとおして、青年ヘーゲル派と絶対主義国家とのあからさまな対立が生じる。(pp.96-7)