• 西阪仰『相互行為分析という視点』、金子書房、1997年
  • ――エスノメソドロジーという技法」in: 栗田宣義編『メソッド/社会学』、川島書店、pp.61-77
  • ――「差別の語法」『講座 差別の社会学1』、弘文堂、pp.61-76
  • 読了。「エスノメソドロジーという技法」は読んだことなかったが、おもしろかった。たとえば、EMは修復主義に反対するがそのすべてを否定するわけではない、EM自身もある種の修復を行っていると明言している箇所(p.66)。もうひとつは、観察について述べた以下である。「『観察』だというと、なぜか不可謬性を主張しているように聞こえること」、あるよねえ。「聞こえる」というか、「観察したから正しい」「観察したから現実を描けている」みたいに「不可謬性」を主張する議論もしばしば見受けられるように思う(いわゆる「現場主義」的な言説等を含めてもよい)。ともかくもおもしろかった&考えさせられた。

 ‥‥しかしそれでも、人々がどんな志向をもっているか、何を思っているかは、けっきょく本人にしかわからない、そんなことを外から観察などできるはずがない、といいたい向きもあるかもしれない。たとえば、皿の上の料理に箸を運ぶのも、じっさい料理を食べようとしてそうしているのかどうかわからない。たんに手首の運動をしているのかもしれないし、箸のつかみ具合を試しているのかもしれない、というように。しかしながら、こんなふうにいってみても、じつは志向の観察という考えを批判することには全然ならない。なぜなら、観察結果は、当然誤りうるからだ。
 /「解釈」ではなく「観察」だというと、なぜか不可謬性を主張しているように聞こえることがあるらしい。これは、たぶん行動主義の影響だと思う。外面的なふるまいを観察し、その観察されたことを解釈して仮説を組み立てる、といった科学観のうえにたてば、観察された事柄自体はとくに問題にならず、もっぱら何をどう観察するか、そして観察された事柄をどう解釈するか、という点が議論の的になる。しかし、あまりにも当たり前のことだけれど、どんな観察も不十分にしかできないこともあれば、失敗することもある。たとえば、「ポインセチアに赤い花が咲いた」とう観察結果は端的に誤りである。(pp.73-4)

  • 近藤英俊・浮ヶ谷幸代編著『現代医療の民族誌』、明石書店、2004年
  • 読了。おもしろかった&勉強になった。
  • とりわけ、川添裕子「『普通』を望む人たち:日韓比較からみる日本の美容外科医療」には刺激をうけた。「普通」の強調が、日本における白人美のグローバル化の進展に歯止めをかけているのではという著者の主張はもっともだと思うが、そうであるなら、韓国では白人美のグローバル化はどのように進んでいるのだろうか、と考えさせられた。
  • たとえば、ややこの論文の主旨とはずれるが、日本では美人とされるひとたちも(取材されているクライアントのひとたちと異なる仕方であれ)「普通」を望んでいるように見える。少なくとも、そこから逸脱しないように慎重に配慮しているように見える。そうした傾向も著者のいう白人美のグローバル化の抑制とつながるのだろうが、では、はたして韓国においては(美人とされるひとたちの)事情はどうなのだろうか。そんなことを考えさせられた。
  • それから、この論考では、ジェンダーアイデンティティとは半ば独立的に、「普通」が求められている様が描かれている。そういうありきたりのジェンダー論にしないところがこの論文のおもしろさでもあると思うのだが、しかしながら、同時に、やはり(?)、ジェンダーについてはもう少し踏み込んで考えてみたいと思わされた。たとえば、今年話題になった秋葉原殺傷事件をめぐっての言説でも(たとえば、『アキハバラ発:00年代への問い』(岩波書店, 2008年)『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』(洋泉社, 2008年)その他等)、容疑者が自身の容姿を問題視していたことが取りざたされる一方で、容姿をめぐるジェンダー性についてはほとんど掘り下げられていなかったように思う。ありきたりのジェンダー論に陥らずに、しかし容姿について、ジェンダーの視点を入れつつ考える余地はないだろうか。そう考えさせられた。

  • 萱野稔人『権力の読み方:状況と理論』、青土社、2007年
  • 読了。「序論」では、ヴェーバー的権力観とアレント的権力観、そしてとりわけ「国家権力」を参照しながら権力について論じ、フーコーの権力論を紹介する。「状況1」「状況2」では、現代のテロリズムや日本の構造改革、フランスの暴動やポピュリズムの台頭が論じられ、最後の「理論」では、フーコーの議論がさらにくわしく論じられる。
  • というわけで、全体のまとまりはあまりよくない本に思えた。たとえば、著者の依拠する(らしい?)フーコーの権力論や方法と個別の状況論がどれだけ噛み合っているのか、一読するだけではわかりにくかった。序論では、フーコーは「身体の政治的テクノロジー」としての権力(や「身体をとりまく戦略的で工学的な仕掛」)を分析したとされるが、本書の「状況」論は、それとはかなりちがうことがらを分析しているのではないだろうか。フーコーの分析した権力と国家権力とは「相互に補完しあっている」と述べられており(p.34)、それはそうなのだろうが、そうした視点が個別の状況論でも活かされているようには思えない。論文集だから(まとまりがなくても)仕方がないといえばそれまでだが。
  • くわえて、内容についていえば、フーコーの権力論の解説としてはその手の本はたくさんあるし(多数あるのでいちいち例はあげない*1)、「権力論」自体の学説史的変遷を知りたいのであれば、盛山和夫『権力』(東京大学出版会, 2000年)が優れている(簡単なものとしては, 川崎修・杉田敦編『現代政治理論』(有斐閣, 2006年),第二章がおすすめ)。さてではなにがこの本の利点・長所なのだろうか、となると、答えが浮かばない、というのが正直なところである。個別の「状況」論だって、どこかで読んだことのある話だったし(酒井直樹渋谷望といった論者の名前が思い浮かぶ)。
  • 細かい論点や言い回しなどを除けば、とくに間違った議論が行われているとも思わないが、もしこの本が「評価」されているのであれば、それはやや不可解なことだと思う。目新しさではなく、平易さが評価されているのだろうか。せっかくの機会なので、同じ著者、そして評判の(?)『国家とはなにか』もじきに取り上げたい。

*1:最近読んだものの中では, 佐藤嘉幸『権力と抵抗』(人文書院, 2008)がフーコー読みとして共感的にかつたのしく読めた.ただし, やや硬いというか専門的.

  • 湯浅泰雄『和辻哲郎:近代日本哲学の運命』、ちくま学芸文庫、1995年(原著、ミネルヴァ書房、1981年)
  • 読了。おもしろかった&勉強になった。
  • いくつもうなずける箇所はあったが、とりわけ「一〇 和辻倫理学」で和辻の西洋哲学の摂取の巧さを指摘したり(p.347)、その批判の空虚さを指摘していたり(p.350, 356-7など)するところなどはとくにつよく共感しながら読めた。まあ、和辻の不思議さはそこにある――摂取の巧みさとその摂取したものに対する批判がどこかずれているところにある――と感じていたので当たり前といえば当たり前だが、と同時に、和辻がそうしなければならなかった理由も本書全体の議論を通じていくばくか垣間見れた気がした。
  • ただし、この本については批判もある。たとえば、米谷匡史「和辻倫理学十五年戦争期の日本――『近代の超克』の一局面」in: 『情況』(特集:日本のナショナリズムと超近代)、1992年9月号、p.127 などを参照。

  • 和辻哲郎『風土:人間学的考察』、岩波文庫岩波書店、1979年(原著1935年, 新版1943年.底本は『全集』第八巻,1962年)
  • 読了。むかし途中で読むのをやめてしまったもの。はじめて通読して、その無理の多い議論に、やはり(?)すこし辟易したが、同時に、西洋思想に対する理解はあいかわらず着実だなと感心させられた。風土について今日でも通用する水準の議論がなされているとは思えないが、西洋思想についてであればちがってくるのではないか、と思わされた。